新型防犯灯。

だからちがうって。目の付け所がおかしい。そんなもの設置したって、狂人たちはターゲットを一人に絞って、且つ一人きりになったところを犯行に及ぶだろうことは想像にたやすいのに。それにそうした機械類で済まそうという手抜きの精神が及ぼす弊害を、大人はまだ悟っていないのだろうか。これまでそうしたことから派生した事件だってあるのに。基本に立ち返れ。親が子供を守るんだ。機械に頼ったり、子供に防犯策教えるっていうのは手抜きに他ならない(無論、子供に防犯意識を高めさせて、且つ大人が見回りなどを欠かさないのならそれはよいのだが)。これは警鐘である。
あとはまあ、この文章をたまたまそういうことを起こそうとしている人間が見ていれば幸いだが、まあそうもいかないと思う。
なぜ人を殺してはいけないか、なんて本がブームになっていた気がする。自分は読んだことない。しかし、それなりの持論はある。
人を殺すと、被害者のその後あるはずだった人生を背負うことが出来ないからだ。
どうも加害者には被害者の人生を背負っていくなんていう感覚が拭えない。しかし加害者は自分自身の罪しか背負えない。相手の人生を背負うなんて都合のいいことが叶うはず無い。背負うのは被害者の家族や知人友人なのだ。
所詮罪を犯すのは器が小さい人間なのだ。たとえ、詐欺で騙された被害者が復讐のため加害者になろうとも。まあ自分が第三者として見た場合、詐欺で騙した側が事故で死んでもそちらに対して何の感情も浮かばないだろうがね。
殺人なんてのは、相手への、それが愛情であれ憎しみであれ自分の器からあふれ出してしまうから起きるものだし、自分自身の欲望が増え続け器から出てしまうことから起きる。
器を大きくするのは・・・まあ人の触れ合いだろう。様々な経験こそ成長させる。自分で使っていてなんだが、インターネットのような『情報』は『経験』に裏打ちされていなければ身にならないし、それなしでは見掛けばかりを育ててしまう。見かけでは一リットルほど容量が入る器が、実は半分も入らなかったら意味が無い。しかもそこから容量を大きくするのはたやすいことではない。
話はうまくまとまりませんが、現代に出来た弊害と言うのは、意外と『良かった』はずの過去の慣習を蔑ろにしたが故に起こるのかもしれません。