どや顔。

監視社会、日本。
人の、自己主張であったり、自己表現であったり、自己顕示であったり、そんなところにネットはガツンと入り込んでしまった。ことブログなんて言うのは、それまで『ネットは情報を得るもの』という一般的な認識を『自ら発信するもの』に変えた。ヘビーネットユーザーはブログではなくとも自分を発信する術を知っていたが、ライトユーザーのネットに対する敷居が下がったことはまさにネットを国民的なものに変貌させた。昔のネットユーザーである若い男性世代はもとい、主婦、小中学生、果てはご老人までブログをやっている。
一方でしょっちゅう見られるのが犯罪自慢による炎上。別にブログになど書かず、自分の親しい友人間くらいでお話していれば大きくならないのに、ライトユーザーはネットの怖さを知らないから簡単に情報を流してしまう。ただ、今現在までmixiなりブログなり広まると、自分が書かずとも無知な知人に件を書き込まれる恐れもあるわけだ。無論それ以前に犯罪なんてやらなきゃいいことに変わりは無いのだが。
そう考えると、私たちの生活はもはや逃げ道が無いくらい監視されているのではないか。別に罪を犯しているわけではなくても、常に見られていることで圧迫・窮屈した感覚を受けるのは当然だ。店舗での監視カメラ、携帯電話に付属するカメラ、高性能になったデジタルカメラ。現代は犯罪に至ってもまずその動向が知られる。
もはや性悪説(やや誤用)である。未然に防ぐという意味ではなく、どうせ(犯罪を)やるんだろうという意識に近い。
全く以って、暮らしにくい国である。
<以上、ガオグライ・ワンカップミノルタ氏著『逼迫』より概要>


コンビニで売っているような廉価のネタ本に、有名人のブログ炎上云々が書かれていたわけです。
某歌手の、某ラジオでの不適切発言も、ネットが無い昔なら誰といって気にも留めなかっただろうことです(確かに不適切ではありますが)。深夜ラジオのリスナーは男性の割合が圧倒的ですし、ということは、不適切だとクレームを出したのは男性である可能性は非常に高い。それをネタに騒ぐところを見たかったのかもしれません。でも、今は監視されているから製作元も黙っているわけには行かない、と。
いまやツイッターもあるわけで、倫理観を鑑みれば、巨悪に立ち向かうツールとしてネットは使えるわけですが、だんだんと弱者強者関係なく貶めるものになりつつあるのかもしれないですな。